ショクライフTOP > 栄養士の働き方 > 《栄養士✩成功事例インタビュー》栄養士 FCJ認定フードコーディネーター 若宮寿子さま 【「食」を「職」にする幸せ。栄養士という仕事に誇りを!】 ~“給食管理”と“病態栄養”の会社員時代(第二部)~

《栄養士✩成功事例インタビュー》栄養士 FCJ認定フードコーディネーター 若宮寿子さま 【「食」を「職」にする幸せ。栄養士という仕事に誇りを!】 ~“給食管理”と“病態栄養”の会社員時代(第二部)~

2017年02月14日

栄養士✩成功事例インタビューの第6回目は、数々のテレビ番組出演や書籍の出版、新聞・雑誌の連載など、メディアで引っ張りだこの売れっ子栄養士・若宮寿子さんです。第一部では、若宮さんが「食」に携わるようになったきっかけから話を伺いました。

小学生の頃から絵が好きで、美大生になることを夢見ていた若宮さんですが、受験の際に美大を目指す人たちのレベルの高さに驚き、自分の力の限界を悟ります。そんなとき、友人のお姉さんが栄養士の試験を受けたことを聞きつけ、自分も栄養士を志し、山脇学園女子短期大学(当時)へ入学します。栄養士の資格をとり、その資格を活かせる仕事をしよう、と考えたのです。

しかし、学校では栄養士になろうと考えている人は大変少なく、そんな中でも周囲に流されず、「栄養士になる」という目標を貫いた若宮さん。その甲斐あって、在学中にVIP向けの栄養指導を実習できたり、“20年後のビジョン”というその後の若宮さんの人生を支える指標に出会えたりと、恵まれた学生生活を送ることができました。
また、卒業後に就職した会社でも、“給食管理”と“病態栄養”の両方を実践するという、大変貴重な経験を積むことができました。

そして第二部では、今一度会社員時代を振り返り、若宮さん自身は「お得感あった」と言いますが、辛いことはなかったのか、どんなところにやりがいを感じていたか、といったことをお聞きしていきます。ご期待ください。

※今回も学習院女子大学名誉教授の江口泰広氏とショクライフ麦島健生との対談形式でインタビューを行いました。臨場感を大切にお届けしたいと考え、対談形式の構成となっております。

【1】

江口先生:
敷地内に病院も持っているような大きな会社に就職して、“給食管理”と“病態栄養”の両方を実践していた、というのが前回までのお話でした。

若宮さん:
はい。今ではできない大変貴重な経験を積ませてもらって、おまけに仕事終わりのクラブ活動で草月流のお免状まで取らせていただいて、とってもお得な会社員時代でした。

江口先生:
でも、そこに9年間もいたわけですから、良いことばかりではなくて、辛いことなんかもあったでしょう?

若宮さん:
それがですねえ、辛かった、という記憶はほとんどないんですよ。そういえば、その当時一緒に働いていた調理師の方が、今は80歳過ぎていらっしゃるんですが、時々電話くださるんですよ。私が出ているテレビを見て、「見たわよ」って。それから、「ごめんねえ、あのときはきつく当たっちゃって」って仰るんです。それで今さらなんですが、「あ、私って、やっぱりいじめられていたのね」って、初めて気がついたんです(笑)。

江口先生:
ハハハ、当時のご本人は、いじめられているという自覚がなかったんだ。

若宮さん:
そうそう、のん気ですよねえ、いじめられていることも気づかずに過ごしていたなんて(笑)。まあ、相手が相当イライラしていたのはさすがにわかっていました。でも、自分の能力がまだまだ足りないことも知っていたので、何を言われても当然だと思って、「ハイハイ」と素直に聞いていれば、あっちでやり込められても、こっちでかばってくれる人がいたりしますから。

江口先生:
じゃあ、気がつかなかった、というよりは、いじめをいじめと思わなかった、ということじゃないですか?

若宮さん:
う~ん、たしかに大変は大変でしたけどね。調理師の方々にしてみたら、自分の娘よりも若い女の子の指示を聞かなきゃいけないなんて、面白いはずはないですよね。そんな方々を相手にたった1人で戦っているような感じの職場でしたから。

江口先生:
ほう、栄養士の職場って、そんなものなの? 孤独な戦士ですね。

麦島:
そういう職場が多いんですよ。調理師の方がかなりの年上というケースもほとんどです。

若宮さん:
でも、それは栄養士の宿命みたいなものですから。そういう状況の中で年配の人との付き合い方を覚えていくんです。それに、みんな根は悪い人じゃないんですよ。調理の現場って、その時間時間で何百食も一度に出さなきゃいけないという、まさに真剣勝負の場ですから、言葉をオブラートに包んでなんていられません。何を言うにも直接的にならざるを得ないんです。だから、きつい言い方をされても、それは仕事に対して厳しいだけ。そんなことでいちいち落ち込んでいたらやっていけません。

江口先生:
そういう考え方をすることで、いじめられていると思わずに済んだんですね。若い栄養士さんにはぜひ参考にしてもらいたいです。それにしても、後々になって「あのときはごめんね」という電話がかかってくるというのは、いい話ですね。

若宮さん:
それは、向こうが驚いているから、ということもあるんじゃないでしょうか。あのときの小娘が、いまだに栄養士を続けている!って(笑)。

江口先生:
続けているどころか、その当時からは想像もできないほどの活躍をされている若宮さんをテレビで見て、嬉しくなって電話してくる気持ちはよくわかります。

若宮さん:
そうでしょうか。まあ、いずれにしてもありがたいことだと思ってます。

【2】

江口先生:
“給食管理”はそれとして、“病態栄養”についてはどうでしたか?

若宮さん:
入社して1年ぐらいまでは、患者として診療所に通っていたんです。調理の最中に包丁で手を切ったり、味噌で被れたりして(笑)。そうして診療所の先生と色々な話をする中で、「君はどうしてこの会社に入ったの?」と聞かれて、学生の頃にホテルオークラのスポーツクラブでやっていたVIP向けの栄養指導の話をしたら、「じゃあ、うちの社長を診てよ」、ということになりまして。

江口先生:
そこからはじまって、やがて社長だけでなく、社員たちの栄養指導へと広がっていったんですね。

若宮さん:
はい。その診療所には入口が2つあって、地元の人も内科として入ることができたんです。地域医療への貢献ということで、社員だけでなく、一般の方も診ていましたね。

【3】

江口先生:
入社して1年ぐらいというと、21歳か22歳ですよね。その歳で社長から社員全般の栄養指導をやって、同時に、給食管理という激務も並行してやっていたんですから、とても充実した会社員時代だったと言っていいと思いますが、そこを9年で辞めたのはなぜですか?

若宮さん:
出産のためです。その当時は、出産するんだったら退職するのが普通だったような気がします。よっぽどのことがないと、子供を保育所に預けて働きに出るような時代ではなくて。

江口先生:
お子さんは何人?

若宮さん:
2人です。そこから10年間は子育ての時期になります。

江口先生:
その間は、何も仕事はせずに?

若宮さん:
それがですねえ、お産で実家に帰ったんですが、実家の近くにあった会社が直営で給食施設を持っていて、母がそこの社長さんと友達で、「お嬢さん、手が空いたんだったら見てもらえない?」と言われまして。様子を見に行ったら、施設は今までのところよりも全然小さいし、皆さん良い方だし、常勤でなくても在宅でいい、と仰るので、産後1ヶ月から仕事をさせてもらえたんです。レシピを開発したり、保健所に出す書類を書いたりしていました。

江口先生:
じゃあ本当に休んだのは一ヶ月ぐらい?

若宮さん:
そうなんですけど、ほんと、仕事としては糸のようだ、と思っていましたね。社会との接点もなかったので。でも、それでずっと10年間は在宅の仕事をやらせていただきました。そして40歳のとき、料理教室をはじめたんです。

江口先生:
おお、急ですね。それまで10年間も在宅で細々と仕事をされていたのに、なぜ料理教室だったのか、そのきっかけなどをぜひ詳しく教えてください。

【4】

若宮さんの(第二部)はここまで・・・
若宮さんが山脇学園女子短期大学(当時)を卒業後に就職したのは、敷地内に診療所も抱えているような大会社。そこで給食管理と病態栄養の両方を実践するという、貴重な経験を積むことができた会社員時代は、とても充実したものだったようです。
調理の現場では、年配の調理師たちを相手にたった1人で戦うという、栄養士ならたいていの人が通る道を、若宮さんも通ってきました。そして多くの栄養士たちと同じく、きつく当たられたり、いじめられたり、ということもあったようですが、若宮さんは「いじめられていたことに気がつかなかった」と笑います。
しかし、よくよく話を聞いてみれば、気がつかなかった、というよりは、いじめをいじめと思わない若宮さんのポジティブな思考が垣間見え、現在同じような境遇におかれている若い栄養士たちにも勇気を与えてくれるのではないか、と思われるようなお話を聞かせていただきました。
そして9年間の会社員時代を終え、出産のために退職した若宮さん、その後10年間の子育て期間中にも「糸のように細い」仕事を続けていましたが、40歳になって突如、料理教室をはじめます。一体若宮さんに何かがあったのでしょうか。気になる続きは(第三部)で。ご期待ください。